誰かのせいだと不満を感じ、つい愚痴ってしまう出来事。
それは本当に、その人のせいなのだろうか?
もし、自分がその出来事を創りだしているとしたら?
以前の私は、いろんな事に本当に不満だらけで、すべてを周りの誰かのせいだと思っていました。
ある時期人生に絶望するほどに落ち込んで、やっと自分の内面と向き合いはじめたら、抱えていた不満の奥にある、自分の本音に気がついてきたんです。
相手への不満の奥にあるものは?
今の環境で不満に思っていることがあるとしたら、それはなぜでしょう?
「ああ、やっぱり○○すればよかった」
「私は決めてたのに、母さえ反対しなければ」
「ダンナがああ言ったから。。。」
そんな不満があるとします。
それぞれの不満の奥を見てみましょう。
「あの時私が○○しなかったから」
↓
本当は別の選択もできたのに、そうしなかった自分。
「決めてたのに母さえ反対しなければ」
↓
したいと決めたことを、母(他者)の選択で変えてしまった自分。
「ダンナがああいったから」
↓
私はそうは思わないと言えなかった自分。
人のせいだと思えることも、心を整理すると、原因は自分の中にあるのが見えてきます。
自分に対しての腹立ちや怒りが、不満という形になっているようです。
なぜ不本意な選択をしてしまうのだろう?
子どものように無邪気なままでいられたら、きっと悩みとか不満なんかないんだろうなと思います。
済んだことは済んだこと。
これからのことは今の時点ではわからない。
だからただ、今を楽しんで生きればいい。
そういうふうに思えたら、とっても楽でしょう。
人は生まれてからある程度の年齢まで、親に躾けられて親の言動を見聞きして育つ人がほとんど。
何事も親の真似をして育ちます。
そのうち学校や社会に出ると、先生や先輩や上司に言われたことも、自分の言動の基準に加わっていきます。
自分なりのルールや思い込みが出来上がり、それが当たり前だと思って生きていきます。
もちろん、他人や社会と関わっていく上で必要な、道徳的・倫理的な教えもたくさんあります。
でも大切な自分の本音が、いつのまにかわからなくなってしまうんです。
あなたにとって必要な出来事しか起こらないのだから
もしも、社会的な決まり事や一般的なモノの見方、家庭や家系の習慣、風習などに縛られず、自分のしたいことができるとしたら?
固定観念って、知らず知らずのうちに植えつけられていきます。
本当は誰もが、たくさんの可能性を持っているのに、身についた固定観念のせいで、
「自分にできるはずがない」
「この状況ではムリよ」
「そうするのが当たり前だから」
といった思いが潜在意識に根づき、不本意な方向に進んでしまいます。
それが、不満の種になっていきます。
過去の自分の選択が、今の自分の状況を作っています。
だとすれば、今この時から選択を変えれば、これからの状況は変わってきます。
いくら恨んでも嘆いても愚痴っても、過去は変わりようがありません。
もちろん、他者を変えることもできません。
愚痴や不満にしがみついていたら、これからもずっとそのままです。
問題の原因となっている、モノゴトの受け取り方や捉え方などの「思い癖」は、自分では気づきにくいものです。
自分の力だけで、いきなりそれを変えるのは難しいかもしれません。
モノゴトの受け取り方や捉え方には、自分なりの癖があるのかもしれない。
それを変えれば、現実が違ってくるのかもしれない。
そう知るだけで変化が起きてきます。
「こういうふうな受け取り方もあったかな」
「自分のしたいことを我慢してたんだな」
「もうひと言伝えてみたらよかった」
と、自分自身を客観的に見ることができるようになります。
思い癖に気づけることは、大きな進歩です。
思い癖に気づくために、これまでの経験が必要だったのだとわかるようになります。
すると、不満だと思っていたことへの視点が変わり、気にならなくなったりもします。
過去の自分を悔やんだり責めることがなくなります。
自分の本音がわかると、人とのかかわり方も少しずつ変化を始めます。
人のせいだと思って不満を感じていたことも、実は、自分が創りだしている。
その視点で出来事を見てみると、自分の本当の想い、本音に気づくことができます。
心に制限をかけずに、これからを生きることができるようになります。